プレイエルの歴史・入門

プレイエルの名は、200年近くもの間、ピアノ音楽の歴史と神髄を支えてきました。 その歴史の1ページ目を刻んだのは、1807年にピアノ製作の世界に身を投じたイグナース・プレイエル(Ignace Pleyel)でした。

類希な才能をもったイグナースは、優秀な作曲家、また発明家として多才ぶりを遺憾なく発揮し、ヨーロッパから注目を浴びる人物でした。

「ピアノとは、演奏者の声としての楽器であり、そして芸術品であるべき」と主張したイグナースは、厳選された素材、卓越した技術、豊かな感性が織りなす表現の可能性を信じ、楽器創りにその生涯を捧げました。

彼の思想は、熟練した職人によって堅く守られ、今なお南仏Alesの地で、その音色を響かせ続けています。

Pleyel — それは、洗練された響き、優雅なタッチ、多彩な表現を放つ名器の代名詞といえましょう。

「音楽が天職であるなら、完璧は探究の対象である。」 Ignace Pleyel

好奇心旺盛な探求者であったプレイエルは、熟達した音楽家であると同時に革新的な発明家であり、1795年には楽譜の出版等も手掛けるなど、その多才ぶりは多方面に於いてその名を強く印象づけました。

彼が興味を寄せた人物としてはハイドンという存在があり、プレイエルは彼のもとで作曲を学んで、41曲のシンフォニーと71曲のカルテット、そして幾つかのクインテット、オペラを世に送り出しています。プレイエルの活躍はフランスのみならず、ヨーロッパ全土から注目されることになります。
留まることを知らない探求心をもったプレイエルは、当時の作曲家や演奏家の要求に応える楽器を生み出すべく1807年ピアノの製作を始め、「プレイエルピアノ」を誕生させました。

彼が人生を託したピアノは、その後独特の音色で急速にファンを増やし、女帝ジョセフィーヌや、ヨーロッパ王室御用達の由緒ある逸品として評価され、南北米を始めとする世界各国へ広く輸出されるようになりました。

1831年にイグナースが他界した後は、息子カミュ(Camille)が家業を継ぎました。偉大なピアニストでもあったその音楽センスもあって、同社は国際的に認知されるまでに飛躍し、成功を収めました。

ピアノメーカーとして軌道にのったプレイエル社は、ロマン主義時代の最盛期、総体的視点から芸術を創りあげることに着目し、演奏者、楽器、聴衆、それらをつなぐ音楽の本質を追求した結果、サル・プレイエル(Salle Pleyel)ホールを設立しました。 多くの巨匠のミュージックシーンを演出し、威信ある音楽文化の発信スポットとしてパリに新たな局面をもたらしたこのホールは、フランスの音楽水準の上昇に貢献することになりました。

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